ファッション史において匿名性の美学を徹底し、既存の価値体系を静かに撹乱し続けたマルタン・マルジェラが、アーティストとしての現在地を示す日本初の大規模個展を開催する。舞台となるのは、登録有形文化財として知られる「九段ハウス」。昭和初期の邸宅建築が持つ重層的な時間の堆積と、マルジェラの作品が孕む“痕跡”の感覚が、互いに呼応しながら新たな空気を立ち上げる。

1957年ベルギー・ルーヴェンに生まれたマルジェラは、アントワープ王立芸術学院を卒業後、ジャン=ポール・ゴルチエのアトリエで経験を積み、1988年にメゾン マルタン マルジェラを設立。解体と再構築、匿名性、欠落、ズレ──その美学はファッションの領域を超えて文化的現象となった。2008年に表舞台から姿を消した後は、ビジュアルアートへと静かに軸足を移し、2021年のラファイエット・アンティシパシオンでの初個展以降、継続的に作品を発表している。

今回の展覧会「MARTIN MARGIELA AT KUDAN HOUSE」は、展示構成からキュレーションに至るまで、すべてマルジェラ自身が手がける。邸宅の各部屋に配置されるのは、コラージュ、絵画、ドローイング、彫刻、アッサンブラージュ、映像作品など、多様な技法による作品群だ。生活の痕跡が残る古い邸宅に作品を“設える”という選択は、マルジェラが長く追い求めてきた「私的な空気感」を空間全体に浸透させるための必然でもある。

九段ハウスとのコラボレーション 邸宅の記憶と作品の痕跡が静かに交差する展示空間。

九段ハウスの静謐な廊下、磨かれた木材の質感、かつての住人の気配をわずかに残す部屋の配置──そのすべてが、マルジェラの作品と共鳴し、鑑賞者を“展示を見る”という行為からそっと逸脱させる。作品は壁に掛けられるのではなく、邸宅の時間の中に沈み込み、あるいは浮かび上がり、訪れる者に親密でありながらもどこか緊張を孕んだ体験をもたらす。

本展は、マルジェラが長年探求してきた「匿名性」と「痕跡」の美学を、建築というスケールで再解釈する試みとも言える。邸宅を巡るという身体的行為そのものが、作品との距離を揺らがせ、鑑賞者を“私的な空間へと招き入れられた客人”のような位置へと導く。

その体験は、ファッションの歴史に刻まれたマルジェラの影響力を知る者にとっても、アーティストとしての現在を追う者にとっても、新たな視点を開くものとなるだろう。